2006年10月31日 (火)

96’夏 Moron 2

このときMoronには2泊しただけでした。(今思うと大失敗、もっといればよかった)その最後の夜の夜中、寝付けなかったら、カミさんが「裏がにぎやかだから行ってきたら?「というので起き出して行ってみたのです。宿の裏にパティオがあって屋台のバルが設けられて地元の人達が大勢いました。冷たいティントを飲んでぼんやりしているとそこへ何人かの人達と連れ立ってディエギイート(Diego de Moron)が入ってきたのです。周りの人達も普通に話していて、自分も一応挨拶をして、日本での公演を見たことを言いました。そしたら、彼は周りの人に向かって「俺は日本で1週間で100万以上稼いだぞ、パコ(Lucia)より多いぞ」と言って自慢してました。そのうち「誰かギター持ってるか?」と聞いて例のオランダ人が部屋からギターを持ってきました。そうして数人で奥の部屋の方に向かっていきました。自分は見送っていたら、知り合ったバーテンさんがこっちを向いて顎をしゃくって”行けよ”という合図をくれました。いいのかい?と目で聞いたら頷いたので付いていきました。他にも大勢の地元の人達がいたのですが、皆うらやましそうにしていました。電気もない暗い小さな部屋でDieguitoが弾き始めたSoeDieguitoa、鳥肌が立つくらいの本物のソレアだった。舞台ではなくMoronの暗い部屋でDieguitoの紡ぎだすアイレは一種異様で”真っ黒いアイレ”(と言うしかないような)が部屋一杯に渦巻いているようで、こんな感覚がしたのは後にも先にもこの時だけだった。周りの人も時折ハレオをかけ濃密な時間が過ぎていったのですが、しばらくして上から管理人(経営者)さんが降りてきて「お前等こんな時間に何やってるんだ?」と言って中にDieguitoがいるのをみたら自分も仲間に入ってしまいました。それから少し経ったら今度は奥さんが来てガミガミいわれお開きになってしまいましたが、もう3時頃になっていました。「これから車でベンタに行くからお前もくるか?とディエゴに言われたのですが、翌朝(其の日)帰ることになっていたので残念ながら断りました。後から聞いたらベンタでも断られ何もなかったそうです。偶然とはいえ、パコ、とディエギイートに会えるとも思っていなかったのが会えるとは何と幸運なMoron滞在だったのか。今でも不思議です。この後もう一人のMoron Toqueの後継者 Juan del GastorにSevillaで偶然会うことになるのです。

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2006年10月30日 (月)

96’夏 Moron 1

タイトルが無いビデオをかけたらいきなりパコ デル ガストールの顔が出てきてビックリしました。これは96年にモロンに行った時の事です。
ヘレスからバスでモロンに行き前に泊まった”Hostal Pascar”に落ち着いて街にでかけました。お店から出てふと横に目をやると小さな子供の手をひいたおじいさんが偶然こっちを見ていて”んっ?”と思ってよく見たらパコ デル ガストールで眼が丸くなってしまいました。一応挨拶したらコーヒーを飲みに行こうと言われ市場に行き少し話しましたが直に話したのは初めてでかなりあがっていて何を言ったのか覚えていないほどでした。前の時はペペさんがいてフィエスタをモロンでやった時(Moron Fiesta 参照)です。そのうち何処に泊まっているのかを聞かれ、さらに教えてもらいたいか?と聞かれました。でもギターも持っていないし、其の頃は半年以上も弾いていなかったので不安でしたが。まぁ一緒に行こうということで宿に帰りました。其の時同じ宿のオランダの黒人の人と知り合っていて彼はギターを習いにきていたのでそのギターを借りることにしました。3人で帰ったら周りの皆が緊張した面持ちでパコさんに接していたのでやはり凄いんだなと思っていましたがカミさんはなんの屈託も無くカタコトデ楽しそうに話していたのには驚きます。こっちは緊張して膝が震えるほどなのに。何が弾けるんだと聞かれたのでパコさんのAmのブレリアをたどたどしく弾いたらニコニコしてディスコから採ったのか?ときかれ、それからレッスンは始まったのですが、Diegoはこう弾いたけど私はこう変えたけど好きか?ときかれそれをやることになったのですが、其の頃モロンのトーケは殆ど知らなくて、それよりあがってしまって指が何処にあるのかも解らない位だったのです。それでもパコ先生は教えてくれて他に一杯弾いてくれてそっちの方が良いので終いの方はただ聞いてるだけだったような気がします。目の前で聴ける贅沢なおもいが一杯でそれだけでよかったのです。今考えると本当に何にも知らなくて勿体無いことでしたが、偶然に会うことができて幸運でした。ところが翌日街を歩いているとレストランの前に立っていた人が手招きして「お前昨日パコと会ってただろ?俺は友達だから寄っていけ」といわれたのにはビックリ。そんな事なんで知ってるの?と思ったけど色々ご馳走になってガルバンソまで貰ってしまった。
ビデオはその時の物で見ていて恥ずかしくなるのですぐ消してまた見るようにしています。また会えるといいなぁ。

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2005年10月28日 (金)

ティブ先生のレッスン Tibu "La Tormenta"

tibu1 翌日から5回にわたるレッスンが始まりました。場所はParrilla de Jerezの自宅です。約束の時間に扉を叩くとティブ先生が開けてくれましたが其の時間はいつも掃除しているみたいでした。レッスンは1階のスタジオでおこなわれました。いつも付いていて見学させてもらったのと時折通訳しなければならなかったのですが不思議とフラメンコについては何を言ってるのかはわかりました。これは自分にとっても良い勉強になりました。まず場所の環境が凄く良かったです。パリージャの家は奥に庭があってジャスミンが満開でその匂いがある時間になるとフワァーと沸いてきました。レッスンはブレリアというよりSolea por buleriaでした。そして音源はテープでおこなわれました。それがなんとParrillaのギターでAntonio Mirenaのカンテ!!Mairenaはロマンセのカンテを唄っています。勿論市販されてないお宝音源でした。これが無茶苦茶に良い!!これだけでもあっしなんざ大満足しちゃいます。さてティブ先生は私の教えるのはモデルノではないし、アカデミアのコンパスではなくヒターノのコンパスです”といいました。ティブ先生はヒターナではないしスペイン人ではないのですが、言われたことがどういうものかは後になって理解できるようになりました。まずブラソから始まりましたがすごく丁寧に上腕の力の入れ方とその時の手の柔軟さ、空気の重さを感じて動かすなどかなり具体的に説明されていきました。ウチのは思ったとうり苦戦をしいられかなり苦労していたみたいです。これから曲もBuleriaになっていきました。一番興味を惹いたのは曲のどこからでも踊りに入っていったことでした。日本では其の曲の始めの踊りとか曲の中盤の踊りとか入るところ(何処で)、マルカールをしてとか決めて教えているみたいですが、関係なしに何処からでも踊り始めてしまいます。それが全然違和感無く自然でしたので初め気がつきませんでした。よく考えると1曲のヌメロてんですか?は順番みたいのがあるようなんですが、あんまりそんなの気にするようでもありませんでした。振りは勿論あるのですがそれを何処で使うのかは自由?みたいな感じで踊りに入った時点で合わせていくみたいでした。ウチのはそこまでいけないのでとにかく付いていくだけで精一杯でした。この何処からでも踊りに入っていく踊りはその後あまり見たことがなくて最近になって日本で大沼由紀さんルビチとやったとき初めて見ました。大沼さんはカンテをよく聴いていて途中でもどこでもスルっと踊りに入っていったのを見てあぁティブがやってたのもこれだったんだと思い出しました。今このような踊り方のできる人はスペインのアルテスタでも若い人では見たことないです。マジで大沼さんて凄いなと思いました。ティブ先生は今はもう余り踊られていない昔のエレガンテな踊りを教えてくれていました。今この時のビデオを見るとその時のことが思い出されてそのティブが亡くなってしまい残念でなりません。

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2005年10月17日 (月)

メンデスのペーニャ(Pena La Yedra)

Rosario ”Pena Burelia”からメンデスのペーニャに向かいました。途中パルマを叩きながら歩いていて街角で止まったときカミさんが何と思ったか踊り始めました。buleria。。周りはちょっとビックリしたみたいですが、すぐにパルマで大盛り上がりました。しょうがないのであっしもアイレ教室(ペペさんの)で教えてもらった”何処でも使える足”を披露しちまいました。なんか凄く気持ちよくってそこにはヒーチャンもハポンもなくて個の自分達だけで。なーんも考えてもいなく恥ずかしいとかも考えませんでした。そんなことをしながら向かったのはヘレスの街の外れの団地みたいな中のbarでした。割と広い所でカウンターがあり第一印象はガランとしたとこでした。少し落ち着いて飲んでいたのですが気がつくと入り口に近所の住人(ヒターノ)の人達が大勢こっちを覗き込んでいました。其の頃は日本人がそんな所までいく人はいなかったみたいで変なハポンを見てみようと見物にきたみたいでお年寄りからアカチャンまでいました。それからMendezは其の人達のなかから自分のファミリーを我々に紹介してくれました。彼の両親、叔父、叔母、姪。。一杯いました。あっしといえば言葉も無く”みなさんお好きなものを飲んでくださいな”位しかいえません。それでも彼等は自分から飲んだり食べたり決してしませんでした。それからカンテが始まりました。このときギターはなく例のテーブル叩きです。周りの人たちがそれぞれ歌います。そして姪たちがそれに合わせて自然に踊り始めました。この時実感したのは”なんだギターなんかいらないじゃんか”と言うことです。よくフラメンコは三位一体とか言われますがそんなもの無くてもフラメンコはできるんだって事です。ギターが無くたって踊りが無くてもフラメンコはできんだよなって。。でもカンテと感じる心があればフラメンコはできんだよって。。そして普通のオイラ達と同じ人達のフラメンコを見たのもこの時が初めてだといってよい程でした。それは自分が心の奥底で望んでいたものだったのです。普通の人達の普段着のフラメンコが見たかったのでこれこそが望んでいたことでした。でもその時は全く気がつかなかったなかったのですが、MenndezのファミリーはあのパケーラのFamlyだったのですが教えてもらったのは日本に帰ってきてからでした。知ってたらパケーラに会わせてもらいたかったです。うちのカミさんは何と言葉もろくに喋れないのにおかあさんや叔母さん等にえらく気に入られて親しそうにしていました。なんか普通に通じてるみたいなんですがどうなってるんだろ?とも思いました。このことはスペインの色んなとこでもヒターノのおばさんにわけもわからずニコニコされて言葉をかけられたりしているのは不思議でした。一緒に行ったX氏がヨッッパラって分けのわかんない歌をがなり始めおまけに踊り始めたときはヒヤットしたのですが回りは大うけであっしのほうがフラメンコじゃないなぁと思ってしまいました。ところで其の中に唄えと勧められても唄わない人がいました。まわりの様子ではかなりカンテで尊敬されてるみたいでしたが頑としてイヤイヤをしとうとう其の晩はうたいませんでした。あっしといえばこのペーニャが凄く気に入ってしまいました。ナナみたいでなんというか落ち着くんです。飾らなくてもいいし、なにも無くても居心地がよいのです。そんなこんなで帰るときヘレスは物騒だからとメンデスは途中まで送ってくれました。今でもこのときの思い出は自分の中で深いものになっています。そしてあの場所にあの中に戻っていきたいと願っています。。いつも。。。

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2005年10月13日 (木)

フェスタのハシゴ (Pena Buleria)

Palillaの家から出るとSan Migelの肉屋に向かいました。何故かというとアントニオが”お前の為にフェスタやったるよ、それで何か食べたい物ないかい?”と言ったので即座に”モルシージャ(豚の血の腸詰め)”と答えました。んじゃ肉屋で買っていくべぇってことになったのです。小さなお店でケースの中には色々な種類のハモンや腸詰めがありました。この際だから普段食べられないものを選んで買い込みましたがその値段の安いことにはビックリでした。2Kg以上は買ったような気がしますが、結局のところ殆ど食べなかったというかそれどこじゃなかったのです。買ったものをぶら下げて”ペーニャ ブレリア”に行きました。アントニオはカウンターに入ってそれらを切って大皿に乗せてテーブルに置きました。そこに先日Rosario0001会ったJose Mendezも加わって周りにも何人もいてビールで乾杯してフェスタというより飲み会?が始まりました。アントニオがテーブルを拳で叩きながら短いSoleaを歌い始めます。これがとても良いのです。そしてすぐにJoseが続いて唄いました。本当に感動しました。2人共歌い終わるとちゃんとこっちが感じているか確かめるみたいに覗きこみます。そしてブレリア、、パルマだけで唄っていきました。こういう時一番自分が情けないのはスペイン語が喋れないことです。思っている感情を相手に伝えることが出来ないのは本当にもどかしい思いでした。そのうちDomingo Lubichiがやってきてギターを少し弾きました。この時は自分が習うことになるとは思ってもみなく誰かも解らなかったです。それよりJoseがギターを取って楽しそうにアントニオのソレアの伴奏をしたのには驚きました。そしてブレリア、、完全にヘレス スタイルのギターでアントニオと掛け合いですごく乗っていました。こうゆうやりかたは散々ナナでやってきたので違和感はなくてすごく落ち着ける感じでした。アントニオのSiguiriyaにも感じたとき体が反応するのですが、それをカウンターの方で見ていた他の人達がこっちを指差してフン解ってるみたいだな?って感じでお互いにつつきあってるのが見えました。大抵スペイン人のフラメンコの人はこいつがどの位好きかまたは感じられるか計っているようなきがします。それは日本でもスペインの何処でも同じでした。あんまり良かったのでちょっと目頭が熱くなったので拭ったらすかさず指差して笑われてしまいました。でもそれは好意的で暖かい笑いだったです。このフェスタ?は別にアルテスタにお金を払ってしたわけでもなかったのですがルビチの伴奏でホセがSoleaを唄いこれはそれまでと違って気合の入ったカンテでいうなればプロの歌でした。周りからもハレオがかかりまさかこうゆうのが聴けるとは思ってもみなかったので幸せでした。この時は本当に周りの空気が一変しました。これこれ。。へっへ思わず頬の筋肉がゆるんじゃいます。これがあるからフラメンコから離れられないんじゃ。だけど本当喋れればなぁ。。アントニオに”ありがとよ”と言いました。一応お開きになった時Joseが”これから俺のペーニャにいこうぜ”と言いました。ということでフイエスタのハシゴになっていきます。

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2005年10月 3日 (月)

パリージャ デ ヘレス

Rosario 翌日またアントニオとX氏が迎えにきました。ぶらぶら坂道を歩いていると上の方から声がかけられました。上半身裸の相撲取りみたいに太ったおじさんとアントニオが何か喋っていました。それからこっちを見て”お前誰だか知ってるか?”と聞いたので”うんにゃ知らない”と答えると”パリージャだぜ”と言うのです。えーっ!!?ホントかいなと思いつつよく見たら写真でみたあのParilla de Jerezでした。突然のことで何と言って良いか解らず、思わずミーハーのあっしは”写真とっていいですか?”と言ってしまいました。”イヤー裸だから駄目だ”とか言ってるうちに”家に入ってコーヒーでも飲んでけよ”といって二階から降りてきて扉を開けてくれました。信じられない思いでしたが中に入ると美人の奥さんが出迎えてくれてお茶を入れてくれました。パリージャは自分のポートレートを出してきて皆にサインしてくれました。面白かったのはアントニオに”お前も欲しいか?ってパリージャが聞いてアントニオは激しく首を立てに振ったことでした。ヘレスのヒターノもパリージャのは欲しいんだと思って改めて凄いんだな、と感じました。ところがうちのカミさんはパリージャが誰かも知りません、てか気にしない人です。その時パリージャは交通事故で首を痛めていたらしく日本の人にマッツサージを受けてると言ってました。それを聞いてちょっとやってあげるから、と言ってパリージャの両腕を持って上に引っ張り上げてしまいました。これにはちょっとビックリしましたが、パリージャは気持ちよさそうにしているのでまぁ良いかとも思ったのですが、度胸がいいと言うか知らないって事は恐ろしいと思ったのです。そのうちカミさんは奥さんに習いたいから聞いてくれと囁きました。あの人この前のタブラオに出てた人で素敵な踊りしてたんだよ。そのときまであっしは気がつきませんでした。カミさんはその時までフラメンコを約8年くらい習っていたのですがとても本場の人に習えるレベルではないんじゃない?と思ったのですがしつこく言うのでしょうがないので聞いてみました。それがLa Tibuです。まずヒーチャンのやりかたで幾らで教えてくれるか?と聞いたのです、それで翌日からカミさんは毎日パリ-ジャの家に通うこととなりあっしもまた付き合わされることになりました。観光はどうすんだ?

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2005年9月28日 (水)

海水浴そして闘牛

antonio 翌朝フロントの呼び出しコールで目が覚めました。迎えに誰か来ているとのことで、昨夜タブラオでアントニオと海に行く約束をしていたのを思い出しました。10時に迎えにいくよ、と言ってたので時計をみたら10分前でした。えーっ時間厳守のヒーチャンなんて聞いたことないなぁ、、と思いつつ急いで仕度してロビーに下りたら昨日あった日本人と二人でちょこんと待ってました。関西の養護学校の先生とかで以後ずっと行動を共にすることになりましたが困った事にもなっていきました。4人で列車に乗ってPuerto de Santamariaに行きました。駅から海岸まで途中何軒かbarによりながらでフィノなんぞ飲んで歩いていきました。アントニオは”お前もっとゆっくり歩け、何でそんなに急いでるんだ?”といって胸をはってのんびり歩いています。それに合わせゆっくり歩いているとアントニオが塩風に揺られながら次々と唄っていったのです。それがとても良くって思わずOle!とハレオかけたりパルマを叩きながら歩きました。観光客が怪訝そう(欧米人)に見るのもお構い無しに悠然と唄っていくのには正に至福の時でした。その時初めてアントニオにDiegoAgujeta知ってる?って聞いたら”俺はプリモだ”と言ったのですがそのときは半信半疑だったのですが後に本当だと知ったのです。海岸に海の家みたいなところで着替えて泳ぎにいったのですが、なにかヌルヌルした海で小さな岩が一杯あって足を切ってしまいましたが、景色はとても良く対岸にカデスの街が見えてとても良いところでした。そして海の家で食べた鰯の鉄板焼きは岩塩とレモンを搾っただけでしたが絶品の味で忘れられないものでした。そこで飲んだり食べたりしてから其の日この街で催される闘牛を観に行くことにしました。アントニオに”お前も行こうよ”と言うと”俺はあんな野蛮なものは見ない”と言ったのには驚いてしまいました。彼は帰ることになり黙って手をだしました。其の手にお金を握らせると彼は一人で帰っていきました。お金についてですが、こうゆうことはあっしは当たり前のことだと思っています。イスラムの世界ではありませんが”出せるものが出す。”ということがあります。まして只の観光客なのでそれなりの事をわきまえて払うべき時とそうじゃない時を区別しないといけないと思っていました。其のことで日本人のX氏とは後に意見の相違がでてきました。アントニオとはそうゆうことが暗黙の了解として成り立っていきました。そのお陰で色々なとこも見せてもらえましたので、得をしたのはあっしの方でした。それから3人で闘牛場に向かいました。

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2005年9月25日 (日)

El LA GA

Rosario ヘレスのタブラオLAGAに行ったのは10時過ぎ頃でした。かなり大きいお店で天井が高いのが印象に残っています。地元の人や観光客でほぼ満員の状態で後ろのほうで詰めてもらって座りました。アントニオに”此処は写真をとってもいいのか?”と聞いたら”何処ででも撮れよ”と言ったのでお客のいない二階みたいな所でビデオを回しました。がすぐ止めてしまいました。舞台ではクアドロでヘレスの若いアーテスト達が並んでいました。Sevillanasから始まりすぐにbuleriaになってTientosとかに続きました。第一印象は”随分地味だなでした。SevillaのLos Gallosで見たばかりだったのでよけいそう思ったのかもしれません。本音をいえば”ダサイ”でしたがそれがヘレスから帰るころにはそのダササが違って感じられるようになりました。舞台で一際目立った巨漢の女の子がいてそれが軽々とbuleriaを唄い踊ったのにはビックリしたのととても良かったです。それがチキでした。彼女はちょうど名が広まっていく時期の少し手前の頃でした。此の時ヘレスの良さも何も解らない時でしたので只地味なフラメンコを見たなぁというのが正直なところです。しかしお客の中にアーテストが何人もいたらしいのですが其の中にFernando Terremotoがいました。ご存知Terremoto Hijoで割と小柄で普通の人みたいでしたが隙を見てサインも貰ってしまいました。こうやってヘレスに着いた最初の夜が更けていき帰ったのは朝の3時頃でマスターに鍵を開けてもらって部屋に入りました。

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2005年9月19日 (月)

ヘレス 2

Lubicgi Antonioとヘレスの街をぶらぶらPena Buleriaに向かいました。色々話しかけてきましたが殆ど聞き取れないので適当に”シー”とか言ってたらやがてこいつはあまり解ってないなと気がついたみたいで最後にいつも”entende?”と聞いてくるようになりそれはヘレスを離れる時まで続きました。pena buleriaは思ったより大きい所で奥に舞台があり入り口の右にカウンターがあって何人かの人が立って飲んでいました。壁にかかった多くのアルテスタの写真にまず目がいきました。それらを見ているとAntonioが手まねきして飲んでる人を紹介してこの人はLubichiというんだけど知ってるか?と言いました。えっ!Diego Lubichi !?CDは勿論持っていたのですが、本人がいるとは思わないし言われるまで気がつきませんでした。これはその後同じ様なことが何回もおきた初めの事です。一応挨拶して勿論ミーハーのあっしは写真も撮ってサインももらいました。penaの裏では教室みたいなのをやっていたみたいですが、そこから一人の男が出てきていきなり”アナタ エンリケ サカーイサン シッテイマスカァ?”と聞いてきました。勿論知ってることを言いました。それがJose Mendezでした。其の頃その名前は日本では知られていたみたいですが、あっしゃ全く知りません。彼はニコニコしてカタコトの日本語で色々話してくれましたがスペイン語がわからないこっちはほっとした事も事実です。其の夜はタブラオに行くことを決めてアントニオと別れてあっちこち歩きながら帰りました。

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2005年9月15日 (木)

96’s 夏 ヘレス 1

カミさんとヘレスに降り立ったのはスペインについて4日めのことでした。それまでは泊まるところは予約していたので問題なかったのですがHostal San Andreではろくにスペイン語がしゃべれないので交渉に困りましたが何とか泊まっていた日本人の人に助けられて無事に部屋に落ち着きました。ロビーでウロウロしていたら”お前こんなとこで何してんだぁ?”と声かけられたのでみるとJose Luis Montonでした。彼もよくナナにきていて顔見知りだったのですがこっちこそビックリでよく解ったなと思った程です。ヘレスの友達のアーテイストらしき人が迎えに来ていましたが彼は明日チピオーナでフィエスタがあるとか情報を教えてくれましたがこっちはそこが何処にあるのかも知らないので御礼だけ言ってヘレスの街にぶらぶら出ていきました。ヘレスは落ち着いたそれでいて活気のある街でした。とりあえずPena Buleriaに行こうと思ったのですが地図を見ても何処に自分がいるもかも解らない位だったのでBarに寄りながら聞いても誰も教えてくれませんでした。それでも散歩しながら何軒目かのbarの人がこの人が連れて行ってくれますよ、というのでみたら痩せて小柄なヒターノのおじさんが立っていました。その時は全く解らなかったのですがこれが其の当時日本人の留学生の中で悪名高いAntonio Moneaとの出会いです。彼と知り合ったことによって只の観光旅行のつもりが大部違ったことになっていきました。

追記:Jose Luis Monton はバルセロナのギタリストで新しい感覚と古き時代の良さを併せ持ったあっしの好きなギタリストです。仕事ではモデルノの弾き方をしているのですがナナで遊ぶ時は骨太のシンプルな演奏も聴かせてくれていました。この年代のギタリストは両方持っているので一概にモデルノとかアンティグアとか決め付けられないです。わりと無口でしたが暖かいハートを持った人です。

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