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2009年4月30日 (木)

モロンは凄いです。

昨夜の興奮状態が続いていたので、3人で話込んだ。朝方から雨が酷く降ったり止んだりなのと、今日は日曜なのでお店は大抵閉まっているんで、外出は止める事にしたのだが、1時頃青木さんとセルベセリアは開いているので飲みに出かけた。カタツムリとサラダで一杯やっていたのだが、雨も止んだので散歩に行こうとガジョの前に行ったらドアが開いていたので、覗いて行く事にしたんだ。驚いたことに人が一杯で中から語りかける声が聴こえてきた。覗いてみると男が舞台の上で身振りよろしく語っていて、ギターが横に居たんだ。(しまった、アントニオヒタノが今日モロンで何かあるって言ってたのはこのことか?)と思ったのだがカウンターに髭のアントニオがいたので人を掻き分けて傍に行くと「お前ら今頃きたのか」だって。(知ってたら教えてくれよ)「誰だと聞いたら?」「フオスフォリートだ、マエストロだよ、知っているか?」これにはビックリ!勿論知ってるしレコードも持っているし、聴いてもいるんだけど実際見たのは初めてだ。もうペーニャも終わり頃でミネーラを唄ったけど凄いんだよ。アイレの出方が今のチャラチャラした唄い方じゃなくてプーロなんだ。フラメンコはフラメンコで音楽じゃないんだ。伴奏のアントニオ ソト(マラガ)も良くて弾く表情もいいんだ。誰かみたいに無表情で弾くんじゃ無いんだ。フラメンコの伴奏はこうやって弾くんだと思わされた。最後のブレリアはレコードとは全く違っていてとにかく熱いんだ。この2つだけ聴いただけで充分満足だった。俺はやっぱりついてるねフラメンコに。
終わった後もアントニオとホアン(弟)とアントニア(妹)と話ていたら老人が近ずいてきて何か話かけた。フエルナンダ姉妹と古くからの知り合いでアフシオナードのPitiñi(目が悪い人)80歳過ぎていて、家族が付き添っていた。その人が少し歌ったんだ。耳をそばだてないと聴こえないので俺達は肩を組んで耳を口元まで持っていって聴いたんだ。それは紛れも無くウトレラのカンテであり、ガスパールも唄っていたものだった。しかもしっかりしたカンテだったのだ。レトラに詰まるとすかさず、アントニオが引き受けカンテは続いていった。聴いていて思わず泣いてしまったら「トランキーロ」と言われてしまったけど、求めていたのはこれなんだ。ピティニのカンテは声に張りが出てきて大きくなり、ペペや若衆も歌い始めるのだけど、そのカンテを黙らせてしまうほどのカンテを直ぐ唄ってしまうんだ。家族は心配して俺達に「もう帰らせてくれ」と言うし、俺達も心配で「もう帰ってくれ」と言うけどきかないんだ。唄いたいんだ!!あぁこの人唄いたいんだ、死んでもいいくらいに!!震えるほど心の底から感じさせられてしまったんだ。今までそんな奴いたか?いいや、いるはずもない世界にいたんだから。フラメンコって凄いんだなぁ!!やっと帰ってくれたので俺達も店を出たけど、若い衆が唄い始めていた。先ほどのバルでまたご馳走になって、フラメンコの話は続きカマレロのパルマの上手いしアントニアも通路で踊りだすし、奥の方では若いのが唄っていて中々良いのでビールをおごり、流石に草臥れたのでピソに帰ってきた。モロンに来て良かったです。ここにはまぎれも無く上質のフラメンコが根付いている気がする。これからが楽しみだ。楽しみながら学んでいけたらいいなぁ!

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2009年4月29日 (水)

フエルガ

車に乗って暫くしてガソリンがモロンまでもたないのに気がついたのだが、もうスタンドも閉まっていて、困ったなぁ、と思っていたら前に車が止まった。Paco Amparoが出て来た。兄貴を追って来たらしい。「お前達疲れているか?パコ達がちょっと寄って休んで行けと言ってるんだけど、このまま帰ってもいいんだぞ」「イグナシオが行きたいなら俺達は大丈夫だよ」で車は回れ右して狭い街中の道をぐるぐる通って道路に止まった。1軒の普通の家に入って行って驚いてしまった。其処には大勢の人達がいてMoyaがギターを弾いていた。La Negraも座って飲んでいた。その真中を通って奥のキッチンでこの家のおとなしそうな奥さんにコーヒーを入れてもらった。モロンのヒタノのアントニオも「お前達来たのか、楽しんでいけよ」みたいな事を言ってくれた。舞台でパルマ叩いていたヒタノが歌い始め俺達は俵さんも言っているようにこういう時はなるべく目立たないようにした方が良いのは経験で知っていたので、隅の場所で立って飲んでいた。前にここの奥さんや女性達が座ってネグラも端にいた。結局ここが一番良い場所だったのだ。(トイレの前だったのだがお陰で色んな人と接することができた)あとから続々と人が来て最後には60人以上いたと思う。フィエスティバル関係者とフラメンコの人はMoron,Utrera,Lebrijaの出演者全員が揃っていたのだ。プルーナのペーニャのおじさんがシャツ1枚でいきなり布をビリビリ破り始めたので皆ビックリして見てたら、細くなった布を首に巻いてどうやらネクタイのつもりのようだ。そしてブレリアを唄い始めこれがフィエスタの始まりだった。ギターはPaco Amparo,Antonio Moya。男達が次々と唄っていく。舞台に乗ってた人にも負けないくらい上手いし熱いんだ。パルマで出てた若いのが踊ったのだが狭い場所で凄いのを見せたので踊り手の誰かだったんだろうな?気がついたら周りは殆どヒタノで他者は俺達3人と此処に住んでるイギリス人だけみたいだった。こんな場所に紛れ込んでいる自分に唖然としてしまい、何だか夢の中にいるみたいだ。前の女性達が歌い始めこの家の人みたいだったが、半端なカンテじゃないのだ。ネグラを見ていたら真剣にカンテを見つめていてうなずいたりハレオをして相手のフラメンコに対し誰であれ尊敬の気持ちを持っているのが解る気がする。テレシータが「カフェ デ チニータス」を歌ったんだけど変わった唄い方でとても良かった。次々と唄って踊るのだが、これを見てると如何に日本のフラメンコと隔たりがあり過ぎるくらいあるのが実感される。この家の奥さんが歌い始めると皆シンとなりそのカンテがまたいいんだ。もの静かに見えた仮面を破って鉄火肌のヒタノ気質丸出しで全員大拍手。青木さんはこの人が一番良かったと言っていた。ネグラが唄い始めやっぱりいいんだよ。プロの貫禄を感じされられてしかし舞台とは違って一見地味に唄っているみたいだけど、中身が熱くてこれだけでも見れて良かった!ギターがイグナシオに変わり少しネルビオだったけど楽しそうで、パコは兄貴の事を世話をやいて良い兄弟なんだ。それからも次々と地元の人達が歌い(後から聞いたらモロンから来た人達が多かっただろうという事だった)踊り、これが本当のフラメンコの姿なんだ。今までフラメンコは何処にあるんだ?と思っていたけど「フラメンコは家でやられていたんだ」と気がついた。誰かの家で昔ながらのフィエスタは続いていたんだ。しかも田舎で。フィエスタは2時間以上続き、ネグラ達Utrera組が帰り始め俺達もイグナシオがガソリンを分けてもらったので、パコたちにもお礼を言って帰ることにした。興奮状態が続きかえって無口になってしまった。
まだモロンに来て2日目で凄いフェスティバルを見れるとは思わなかったし、その後のヒタノ達のプライベートなフィエスタまで行くなんて夢にも思わなかった。いやぁ!!やっぱりヒタノ達は凄いよ!日本人であそこで唄えるのは誰も居ないだろうと思うくらいだもの。(唄っても場を壊すかお客さん扱いされるだけだろうけど)俵さんはこんなの何年もみてたんだろうなぁと思ったら凄い人なんだなと改めて思ってしまった。フィエスタでも商売でやってるのと本当に自分たちの為だけにやっているのとは違っていて当然なんだ。5時近く帰っても興奮状態で3時間しか眠れなかった。

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Pruna Flamenco Festival

  Prunaはモロンから25km程の村で曲がりくねった道を行く、途中エウヘニアのお父さんの働いているフィンカの前を通ったのだが広大な敷地で境界が解らない程だった。30分程で9時頃Prunaに着いた時は薄暗くなっていた。公共のカセータが会場で天井が天幕で半分覆われ半屋外だった。寒いので冬用のコートを着ていって正解だった。舞台の準備がされていて、会場のバルでビールを飲んだが寒くても暖かい飲み物は無かったみたい。出演者も来ていて其処此処で挨拶が交わされていた。Antonio Moyaもいた。会場を見渡してみると見るからにヒタノの人が多くバァサン達も若い美人も大勢居てまるでヒタノの見本市みたいで見ていて面白いので寒さも忘れてしまったくらいだった。Juan del Gastorが入って来たので挨拶したらどうやら覚えていてくれたみたいだった。彼のお父さんの写真をあげると喜んで直ぐ懐にしまっていた。その後も何回も顔があって少し話した。11時過ぎから地元の人の司会でFestivalが始まった。出演者と演目です。

1_2 1. Raul Montecino(Pueblo Cazalla) Antonio Moya
    Minera, Tarantos, Fandango
  若い人で神経質そうで普通のカンテ

2_2 2. Polaco(Granada), Antonio Moya
    Tangos, Buleria
   ポラコは期待したほどでも無く普通

3. Moron Toque: Paco Amparo, Ignacio de Moron, Luis Andorrano hijo
     Bulerias
   音響の状態が悪く特にLuisのマイクが入っていなく。直ぐに終わってしまった。音響の不具合は最後まで続いたのだった。

3 4. Cantaora(?) touque(?)
     Tangos, Buleria
   Antonio (14歳)
  Fandango, Buleria
  会場がうるさくなり聞き取れず雨も降ってきたが主催者の再三の注意にもかかわらず騒がしいのは最後まで続いた。14歳の子供はソロのカンテでは一番良かったかもしれません。居るんだねこういうの。

55. La Negra, Teresita, Mercedes, Igncio, Paco Amparo, Antonio Moya
    Moron、Utrera、Lebrija のブレリア、自分はやっぱりネグラだったが青木さんはテレシータだった。いずれも熱いのりで見ていて気持ちが良いのだ。

46. Juan Chico, Antonio Moya
     Alegrias, Farruca 
この辺から場内が騒然としてきた。

7. Antonio Carpintero(Moron), Paco Amparo, Antonio Moya
     Bulerias
Farrquitoが入ったらしく場内騒然となり舞台そっちのけになった。カルピンテーロは気にせず良い味をだしたが、早く終わった。

8. Juan El Velo(Jerez), Paco Amparo, Antonio Moya
     Bulerias
モロに影響されたのがこの人めげずに始めて直ぐ終わってしまった。

9. Farruquito, Su primo, Carpeta, Paco Amparo, Antonio Moya,Antonio
  Bulerias
8 9 10フアルキートがあんな事件があったのに何故こんなに人気があるのか?良く解った気がした。とにかく凄いとしかいいようが無いんだ!!カルペータはモンストロだった!!参りました。しかし何でこんな小さな村に来たんだ?他所からは誰も来ていないみたいで、皆近隣の村から来た人ばかりみたいだったけど。周りがヒタノばかりみたいなのでファルキートも乗ったのかもしれないけど、凄かった!だけです。

見ていて面白かったのは観客だった。観客からパルマが打たれ見ていると叩き方は様々なんだけど裏もぴったりあっていて、凄いの一言。会場がパルマの渦に包まれるのは圧巻。今にも死にそうなオバァサンが杖を突き手を引かれて椅子にやっと座っていて、俺達にも喋りかけてきたけど、何を言ってるのかさっぱりわからなかった。バルで飲んでる人達も多くそのうるさい事といったら、再三の出演者や司会の注意も聞かず最後はあきらめてしまったみたい。ここで力量の差がわかる気もする。カンテの上手い下手というより気合の差で会場を惹き付けるか圧倒できるか?なんだ。何かを持っていないとそんな事できないんだ。けれども観客も舞台も見ていて面白かった。殆どヒタノ達というのも初めての経験で何だか空気に緊張感があっていいんだよ。終わったら地元のおっちゃんが歌いJuan del Gastorが踊っていてかっこいいんです。イグナシオは俺達に気を使って飲み物や食べ物をどっさり奢ってくれたけど、そんなにも食べれないよ。いい人なんです。
ファルキートも凄かったのだが、ここで一番ビックリして感動したのは、先ほどの歩くのもやっとで人の手を借りてヨロヨロ歩いていたオバァサンがモジャと話しているのを何の気もなく見ていたら突然杖を放り出したのだ。これには唖然としてしまい、魔法でも見たみたいだったのだ。今にも死にそうな人が杖を放り出して踊ると表情も活き活きとして無邪気な童女のような顔に変わったのだ。もっと驚いたのはそれを当然として見ている周りの人達なんだ。若い者が踊っているのとなんら変わらない態度だった。いやぁ!!フラメンコって本当に凄いな!と思った瞬間でした。オバアサンはやっぱり人の手をかりてヨロヨロ帰っていったんだ。夢でも見てたみたいだった。
イグナシオの車でモロンまで送ってもらう事になったのだったが。。。。

  

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2009年4月28日 (火)

イグナシオの家

4月25日イグナシオがピソまで迎えに来てくれたのだが、ちょうど2階の住人と入り口で会ったので挨拶と立ち話をしてしまった。セネガルの夫婦で長身で少し足の悪いビランさんと奥さんのアイーシャさんで二人とも感じの良い人だったので安心した。奥さんは身重でビランさんは8ケ国語を話せるそうだ。奥さんはフランス語で今、近くでスペイン語を習っているので一緒に行こうといってくれた。(スペインに来て6ケ月で流暢に話していた、ビックリ)ビランさんは8年くらいスペインにいるらしい。
イグナシオの家はモロンのはずれのマンシォン街にあり20年くらい前に買ったんだそうだ。(という事はエステポーナと2つ家を持ってるんだ、2つとも綺麗な家なんだ。金持ちじゃん)上の階には”La Chica”が住んでいて弟のPaco Amparo(Son de la Frontera)も住んでるらしい。モロンの何人ものフラメンコ達が住んでるみたいだった。(どうやら聞いてたアルカラじゃなくここの事かもしれない。)イグナシオは今夜のフエスティバルに出演するのでその前にカミさんのマッサージを受けたかったのだ。今まで5回して始めの頃からは見違えるように良くなっていたので奥さんのエウヘニアとカミさんを信頼してくれて感謝もしてくれているんだ。(初めは気持ちも体も本当に悪かった)そこへ弟のPacoがふらっと入ってきて紹介された。パコはイグナシオより小柄だがよく似ていて「兄貴は俺よりプーロなんだ」と言った。(さんも言ってた)日本人のRYoというのを知ってるか?と聞かれたけど小林亮君の事かな?(褒めてたよ)パコとは青木さんを通して普通に「ギターは誰に習ったんだ?」と聞いたら「俺と兄貴は誰にも習ってないんだ、耳と目で覚えたんだ。叔父のDieguitoも教えてもらえなくて窓にかじりついて聞いて覚えたんだ。同じだよ」と言ってたけど、どうやらそうみたい。胡桃を一人で黙々と食べて帰りは一緒に出て「また会おうぜ」と普通の感じで分かれた。イグナシオが今夜迎えに来てくれるらしい。”Pruna”という村でやるらしい。聞いたことない地名だった。

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モロン 生活が始まりました。

4月24日ダンボール箱3つ、大中キャリー6個、大きなバック1個、とギターと我々3人をフランシスコはいとも簡単に彼の車に乗せて僅か2時間でモロンに着いてしまった。流石にプロのドライバーで本当にお世話になってしまいました。貰った鍵で開けようとしたけど開かないのでメルセに電話したらいとも簡単に開けたのにはビックリ、スペインの鍵は一筋縄ではいかないんだ。とりあえずガレージに荷物を運び込んで中に入ってまたもや驚いてしまった。何と立派にバスルームが出来上がっていたのだ。当然壁を壊して作ったに違いなく物入れもあり、こんなに短期間で出来上がるとは思ってもいなかったのだ。後で聞いたら相当プレッシャーをかけたみたいで3日間夜の12時近くまで作業していたらしい。日本ではありえない事だね。インターネットもその場で電話してくれて来週中には来てくれる事になった。アントニオも心配して来てくれたけど、今の所申し分無いです。荷物も大方かたずいて、青木さんには冷蔵庫の清掃や細かいところの掃除をしてもらってトイレの不具合まで直してもらってしまった。、殆どの食器、鍋なども揃っていてメルセの細かい気配りが感じられた。ちょっと遠くのスーパーにとあえずの食料を買い込んだのだが多すぎて疲れてしまった。
すこし落ち着いてみると長年の夢だったモロンにやっと今座っているのが、信じられず不思議な気分です。これからどんな生活になるのだろうか?フラメンコは?スペイン語は覚えられるのだろうか?不思議と不安感は無いのだが。。。
明日はフィエスティバルに行く予定だけど、ヒタノのフィエスティバルって見たことも無いのでどんな感じかも想像もできないし、一体本当にやるのか?どうかも解らないんだ。けれどもアントニオも車に乗せて行ってくれると言ってるから多分大丈夫でしょう。

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2009年4月22日 (水)

あと少し

エステポーナの青木さんの家に来てもう1ヶ月近くなります。明後日モロンに発つのでこれがエステポーナの最後になります。モロンではネットが直ぐには繋がらないので暫くお休みです。思えば僅か一ヶ月の間に色々なことがありすぎて、展開の速さに驚いていて唖然とする事が多かった気がします。けれどもそれは全てに於いて嬉しい驚きでした。これも青木さんのお陰です。地元のTVに出たことによって何人もの人に声をかけられたり、それは恥ずかしかったけれども好意的に見られたのは嬉しいことでした。ヒメノスさんやイグナシオに会えたのも、モロンでアントニオに会ったのも偶然かもしれないけど、何年も好きだけで追っかけてきたのをフラメンコの神様が可哀想に思ったのかもしれません。ヒタノのフラメンコのファミリーと付き合う事になるとは夢にも思わなかった事です。最後のレッスンにイグナシオにちょっと褒められたのを糧にモロンで地道に練習しようと思っています。ミツコさんが言った「これからがスペイン語も喋れない夫婦の本当の大冒険」が始まるのだと思っています。ゆっくりモロンで暮らしていければよいです。それではまたね。Hasta luego

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2009年4月20日 (月)

悪戦苦闘

このところ青木さんとブレリアのコンパスに悪戦苦闘しています。今までフエラだと言われてたけどこれ程酷いとは思わなかった。弾けるものが弾けなくなるし、入り方が遅れたりずれたりするのだけど、とにかく始めと終わりのコンパスが嵌らない、中間もダメ。全部ダメなんだ。イグナシオは厳しくてすぐダメ出しするのでいいんだけど、この頭の悪さにはいい加減嫌になるなぁ。一番簡単で今まで弾いてたものが弾けなくなってる。今ではあらゆる武器(ソフト)で乗り超えよう60と70歳の爺い二人がめげずにやっていて、青木さんは特にがんばっていて今は負けてます(本当)。上の階のデンマーク人から何回も苦情が来るほどです。俺はまだ先が見えていません。パルマが見えてきません。あぁあ嫌になるなぁ!!とにかくやるっきゃないので頑張ろう。Ofuuu...

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2009年4月17日 (金)

Moron 家探し 3日目 最終日

ピソの契約は正午からおこなわれた。メルシと最後の風呂の取り付け場所についての事だったのだが、全部向こうに任せることにして、契約書にサインとなったのだが、今までもそうだけど青木さんには何から何までお世話になってしまい、青木さんが居なければどうなったのか?恐ろしい気がします。本当に感謝に耐えませんが、普通に接してもらってます。3時Moron出発エステポーナに向かった。今度はMontellano経由なので時間があるのでGastorの村に寄って行くことにしたらカミさんが「あんた達Gastorと名が付けば何処にでもいくんだね」と言ったのには大笑いしてしまった。Gastorは小さな村でGastor_1 狭い道を降りて行くと小さな広場のサークルにギターと帽子のモニュメントがありDeigo del Gastorのペナントが刻まれていた。傍のバルに入っていくと大柄な男が怪訝そうな顔で迎えてくれたけど、初めコーヒーを頼んだのだけれど、何を言ってるのか、その強いアンダルシアなまりで青木さんでも解らなかったのだ。そのサルバドールがDiegoの話になると目つきが違ってきて「お前達俺より知ってるじゃないか?」何者なんだ?といわんばかりで態度が変わったのだ。そこに老人が入ってきてコーヒーにアニスを割って飲んでるのをみて「俺と同じ飲み方してるGastor4 よ」と青木さんは喜んでいたけど、そのおっちゃんが「俺もアリアーテの生まれだ」「こいつらよく知ってるぜ」なんて言いながら「お前達Diegoの像は見たのか?」と聞いたんだ。「えっ?そんなの誰も言ってなかったぞ。このギターだけだと言ってたはずだろ」Gastor3 「案内してやるからついてこい」半信半疑で付いていくと200mくらい先の突き当たりの広場に確かにDiegoのモニュメントはあっGastir2た。誰も此処まではこないのかも知れないし、Gastorなんて普通観光でくる場所じゃないもの。しかしGastorは静かな小さな  村で人も純朴そうで寄って良かった。青木さんにはずっと運転し てくれて疲れたはずなのにエステポーナに帰ったら二人とも モロンで出合ったことの興奮で喋ってしまった。モロンでの家探しが順調にいったのも全部青木さんのお陰です。

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Moron 家探し 2日目 その3

アントニオが別のペーニャに車で連れて行ってくれる事になった。モロンには2つのペーニャがあるのは解っていたけど、今回行けるとは思っていなかった。雨が降り出すなか、着いたのはPeña Montegilでアルカサルの反対側にあり、此の地域には来た事無かったのだが、新興地域かも知れず、以前にはペーニャは無かったのだ。割と広いバルで正面に舞台があったがgalloとは年季が違う気がした。ここでアントニオたちは月一回会合しているらしい。18日頃ペーニャがあって誰か歌うらしいけど来れないね。何人かがサッカーを見てただけでフラメンコの雰囲気では無かった。ここでロンダの話になって、何と青木さんのロンダの友達のアントニオ ゴンザレスさんがアントニオ(面倒くさいね)の友達でもあることが解り早速電話をかけてしまった。向こうも突然で驚いたことだったろうな。このゴンザレスさんというのは有名な画家「東郷青児」を養父と名乗っていて、日本語がペラペラらしい。しかしアントニオは彼が日本語を話すことを知らなかったらしく驚いてたみたいだった。しかし縁て面白いね。東郷青児の娘さんのタマミ?さんが住んでいると何かで読んだ記憶があるけど、どうやら間違っていたみたいだけど、何処でどう繋がっているかわからないなぁ。本当に色々なことが起きる日だった。帰りはオスタルまで送ってもらってしまった。

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2009年4月16日 (木)

Moron 家探し 2日目 その2

アントニオ達と話していると、マヌエーと呼びかけたのでそっちを見るとお懐かしやManolo Coronadoさんじゃぁありませんか!アントニオは紹介してくれるつもりだったのだけど、旧知の仲なんだ。マノロは俺の事「こいつはブレリア下手糞なんだよな」って言いやがんの。「此の前の指の怪我はどうした?」って聞いたら指を広げてみせた。中指が曲がり放っしになってしまっていた。それどもギターは弾いてるみたいで良かった。聞いたらペペと喧嘩したらしくガジョには行っていないみたいなんだ。どうりで空気が冷たかったわけなんだ。25日にPrunaでフィエスタやるからお前も来いと言われたので其処は何処なんだ?歩いていけるのか?と青木さんが聞いたら25kmも離れてるんだって。行けたらいくよって事だね。(後で聞いたらイグナシオにも誘われたので行こうかと思っている。ヒタノが皆集まるらしい)外のテーブルに小太りのいGaspar かにもヒタノのガスパール(まだ若い?)がやってきて「俺はアニージャの孫だ」と言ったので「あのアニージャかい?」と驚いてしまった。(”Aniya la de Ronda” 伝説のカンタオーラでDiegoの大伯母:El eco de unos toquesに写真があります)これは間違いでDolores Amaya Floresの孫みたいだった。アントニオの話だとガスパールの踊りは大したものらしい。(ガスパールは瀧本さんにそっくりで思わず笑ってしまった)青木さんと話込んでいたけど、何だか解らないけど結構俺達を心配してくれて「いい奴ばかりじゃないからな」と言っていたみたいだった。アントニオに今日のお礼にガジョに来てくれるように頼んで帰ったけど二人とも興奮状態でシェスタもできなかった。

ガジョにいくとアントニオヒタノのアントニオ(ややこしい)が入ってきた。二人ともカンテを唄うみたいだった。アントニオがポケットから取り出してくれたのは「2008年ディエゴ生誕百周年記念」に作られたCDだった。まだ日本では発売されてなくこれもForoがかかわっているみたいなのだが、掛けてみると全く聞いたことのないフアルセータの曲がありもう売られていないみたいだが、確かでは無い。PepeがJoselero,Perrate、Bernardaをかけて、いいんです!これが。思わずJoseleroのレトラをなぞったり、Perrateのメロディーを鼻歌で追ったり、ここがいいんだよーと目配せすると「こいつ良く知ってるなぁ」と言ってくれた。(俺だってそれくらいの事はできるんだい、ベラボウメ!(注)長井さんのマネ)アントニオは二人ともSinギターで唄いヒタノのほうはちょいと踊ったりしてこれがまたいいんだね。(笑い)粋なんだよ。(今俺は”ナナ”で遊んでいる時と同じ様に普通にモロンで遊んでるんだなよぁ)と感じたらなんだかジンとしてしまった。こんな事できるとは夢にも思っていなかったし、ただDiegoが好きというだけで、受け入れて普通に話したり(言葉はあんまり解らないけど)してくれるのは本当に楽しかったんだ。やっぱりモロンに来てよかったよ。フラメンコっていいんだよなぁ!!。。。。

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Moron 家探し 2日目 その1

例のバルで朝食を食べてから "Pena Gallo"に行った。Pepe (Lebron)は前よりこざっぱりしていて元気そうだった。どうやら思い出してくれた?みたいだったが、相変わらずの感じで何だか可愛いんだね。最近出した自分のCDをだして早速売りつけられたが青木さんと1枚ずつお付き合い。奥さんのエンカルナ(ローラじゃなかった)が居ないので聞くとあまり体調が良くないみたいだった。青木さんはフラメンコの話をしたのだが、以前と雰囲気が変わっていて、フラメンコの匂いはしなかったのだが、その理由は後にわかる事になるのだが壁の写真は大分変わっていて、増えていたのとDiegoの見たことの無いのも飾ってあった。ちょっと飲んで不動産屋との約束の時間が来たので店を後にした。

案内されたのは街の下の幹線道路沿いの6階建てアパートの最上階だったのだが、スペインに来てまでアパートに住みたくないのでここも断念した。ここも電気、水道、ガス料金は別だった。さて、困ってしまったのでバルで相談する事になったのだが、家賃は殆ど同じで電気、水道料金が同じだとすると、一番初めに見たピソが際立ってよかった。カミさんも仕方なく妥協すると言ったので電話連絡して後ほど会うことになった。歩いていたら突然俺の電話が鳴り足をけがしたマノロからで1時間30分後に1軒見せるのでバルに来いといわれた。了解して電話を置いた途端又鳴って今度はアントニオからで今から1軒見せるからバル ミゲリートの所に来いという。そっちに向かう途中ヒョイと横を見ると「ん!?」向こうもこっちを向いて?”Paco Paco del Gastor”さんじゃありませんか!」奥さんと散歩中みたいでダンディに決めてました。青木さんは20年ぶりに会ったので舞い上がっていて、「あなたの作ったパハロのパエジャは美味しかった」とかわけの解らないことをいってるし、パコはペペ島田さんの事を覚えていてその話をするし、どうやら「そのうち俺の家にも来い」と言ったみたいだが定かではない。こんな風に会ったのは2度目だけど、前回モロンに一週間いたけど誰にも会わなかったのに変だなぁ。奥さんは大柄だけどとても優しそうでカミさんとなにやら話してたみただったが?アントニオに今パコと会ったと言ったら「友達だよ」で終わり。皆知り合いなのかね?
セントロからすぐの道を登った所に大柄で物静かで知的な女性が待っていてくれて、ドア(ガレージ)の鍵を開けてくれた。彼女がここのオーナーのMercedes(Merci)だった。ガレージの奥のドアを開けると、廊下の右にアーチがあって小さなパティオがあった。奥はサロンと台所ここもオール電化、寝室2つ、場所は良い環境で車は通り抜けられないのだ。しかし、またしてもシャワー式で断ることにした。するとアントニオが思いがけないことを言い出したんだ。「この壁を壊して風呂を作ってやれよ。(壁を壊す?)するとメルシは躊躇無く同意してしまったのには驚いてしまった。だって日本ではありえないでしょ!?しかも家賃も負けてくれるらしい。ここまでされては風呂の問題が無ければ良いことだし、決めることにした。懸念していたネットはケーブルTVが入っているので電話を引くことなくできるみたいで、これだけでも助かるのだ。しかしアントニオの友達のマノロとの約束もあるので、そちらを見てから決めることにして了解を取った。バルでマノロと待っていたのはニコニコした銀行員みたいな人で案内されたのは先ほどの家の真向かいだったのには驚いてしまったのだが、中にはいると月とスッポンほど違っていて、3階は3寝室、2階に豪華なサロンと事務部屋1階にキッチンとバスルーム、とてもじゃないけどこんな所に夫婦2人で住めないよー。かえって断りやすかったので良かった。実際の所一番最初のが良かったのだけれども、此処はアントニオの身内やマノロの身内も住んでいて、何かあったときは助けてくれるかもしれないという甘い根性もあるのだけど、何だかここの方がフラメンコの匂いがするんだね。後で聞いたらDieguitoPepe Torreも近くにいるらしかった。夕方書類の事でメルシと会うことにしたのだがバルの前を通りかかったのでそのまま渡して翌日に契約することにして、もうこれで今日は何もする事も無くなって何だか信じられない気分だった。(続く)

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Moron 家探し 1日目 その2

Aoki 待ち合わせの時間に車で」迎えに来てくれたのは若いKiko氏で案内してくれたのはCalle Pocitoから入った2階のピソだった。3寝室、サロン、浴室、キッチンでオール電化、窓の外は古城が見えて抜群の環境。実はこのピソはその後見た中で一番気に入った物件でした。問題は家賃なのだが我々は限られた予算で出来るだけ長く住もうと思っているので、安いにこしたことはないのだ。ここは電気、水道料金が別でその経費が馬鹿にならないのでは?との不安があり、後々カミさんと議論する事になるのだ。とりあえず他も見る事にしてそちらに向かうことにした。
案内されたのは地図で示された場所とは違いLa Carreraに近い小路の2階のピソで2寝室、サロン、キッチンで環境も良く綺麗なピソだったのだが、1つの問題で断念してしまった。それは風呂で、ブラジルでシャワーだけの経験をしてきたので、我々にはそれだけは譲れないと決めていたのだ。ここも電気、水道料金別。もう一度不動産屋で明日他の物件を探してもらうことにした。
先ほどのバルでアントニオに「まだ見つからないんだ」と言うと「心配するな、ゆっくり探せ。見つけてやるから」と言ってくれたけど、正直(あてになるのか?)と思っていたんだ。今日(月曜日)はGalloも休みで食事してオスタルに帰ったが、ピソはともかくもフラメンコがあるのは分かっただけでも良かったな、と自分の慰めにしたけれども、ピソが見つかるか?どうかは全く分からずどれだけ時間がかかるのか?見当も付かず不安が増すばかりだった。けれども腹を括って見つかるまで居ようと決めて翌日も泊まることにしたのだった。

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Moron 家探し 1日目 その1

私達のモロンに於ける家探しの旅がかって無い程の体験と幸運をもたらしたのは結局の所一人の男に遭遇した事から始まった。
話は長くなるけど順を追って述べたいと思う。
2年ぶりのモロンに着いてオスタル タルーゴに部屋を取ったけどここしかモロンでは泊まるホテルはないのだ。5ユーロ値上がりしていたのだが、部屋数を増やす改造をしたみたいだった。昼近かったのだが何処のバルも閉まっていてセントロ(中央)のバルで軽く食べて傍にあった不動産やで聞いたところ、7時に1軒ピソを見せてくれることになり、前に電話していた不動産屋は5時に見せてもらうことになった。それまで大分時間があるのでgalloの公園に行く途中いつも寄る本屋さんの前に来たとき(そうだ、雑誌を買っていこう)と店の前に立って通りを眺めていた髭のおじさんに「a compAntonio ás」という雑誌はありますか?と尋ねた(お店の人だと思っていた)のだが怪訝そうな顔で要領が得ないので店の中で見知った女の人に聞いたけどどうやら置いていなそうだった。そこへ先ほどのヒゲの人が入ってきて、店員と話してどうやら此の人がその本に関係している人だというのが解った。男が「付いて来い」というので面白いことになりそうな気がして行くことにした。途中[Foroを知っているか?}と聞かれたので「勿論知ってるよ」と答えるとちょっと驚いた顔になった。「Foro」というのはモロンのフラメンコを振興させるために立ち上がった団体でこの「a compás」もそこで出版しているのだ。(知った経緯は長くなるので述べないことにします。) 目抜き通りに面した家の扉を開けると其処はガランとした大きな家でまだ工事途中の何も無い空間の所でダンボールの中から取り出して渡してくれたのはビニールがかかった新しい「a compás」だった。この男がこの雑誌の発行責任者のAntonio Montilla氏だったのだ。「この家を買ったけどまだ手をつけていないんだが此処でフィエスタやれたらいいんだ」と言ったけど(ほんまかいな?)
Jardines de La Carrera に面したバルでビールを飲みに行くと友達が何人もやってきてアントニオはこの日本人は「Foroを知っているんだ」と言ってい るうちに「今からDiego de Moronを呼ぶから」とかけ始めた(おいおい本当かよ?)「今買い物に出てるんだって」(ふむ)また電話をかけ始めた(忙しい奴だな)聞いてるとハポネス、とルイサという単語が聞こえたんで「青木さん彼今ルイサ(ポーレンの奥さん)に電話してるよ」と言ったらビックリして代わってもらったんだ。ルイサもビックリしたみたいだけど、今まで青木さんはルイサと英語でやりとりしていて、青木さんが流暢なスペイン語を喋るのを初めて知ったらしい。これは周りの人達に内容を解ってもらうためにわざとスペイン語で話したのだが、それで信用してくれたみたいで一気に打ち解けてきたんだ.青木さんがポーレンの本を日本で出版したことを言い。ちょうど「これもひとつの生き方」を持っていたのでアントニオに本のお礼にあげる事にし、サインしたら喜んでいたけど、当然読めないよな。Diegoの血筋など話してManoloいると「こいつら良く知ってるよ」と感心されたけど、当たり前だよ。「今ピソを探しているんだ」と言うと、足にギブスを嵌めたマノロが「俺に心当たりがあるから分かったら教えてやるよ」アントニオも「俺も探してやるから心配するな」このあたりを歩いているおじさんも「俺も見つけてやるよ」と言ってくれたけど、(あてにしないで待ってるよ)の気分。ビールやタパスがどんどん出てきて「払うよ」と言っても「いいからまかせろ」と言ってとうとう全部奢ってもらってしまった。みんな Diego を尊敬していて、知らない人はいないのだ(パジョもホワイトカラーでも)ヘレスでもフラメンコを知っているのは一部の人でホワイトカラーの人がどれだけ知っているか疑問だ。フラメンコを話はじめると止まらなくなり他人の話にかぶせて話すのであの青木さんでも付いていけないんだ。普通の人が普通にフラメンコの話しをしているなんて信じられるかい?本当に驚きだった。フラメンコはモロンにも無いかも?と思っていたのが違っていて嬉しかったけど、余りに早い展開なので呆然としていたのが実感だった。シェスタの時間になったのでオスタルに戻ってピソの物件探しに備えることにした。

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2009年4月12日 (日)

親指

このところずっとコンパスばかりやっているのだけど(コンパス取りとは違います)指も上手く動かないし単調なので少しだれてきました。音を使っていない(まだ使えない)のでどういう風になるのか?見当もつかなかったのだけれども、(イグナシオは凄いけど)Diegoのレッスンを聴いたらやっぱりこう教えていました。やっとそれで何かが見えかけてきた気がする。あぁこういう風に使うんだ、というのがおぼろげに解ってきた。しかし、たかが2週間くらいで、解ったような甘い考えではできっこない。それでも親指の使い方が重要な要素を占めているのは感じた。他のギターと比べて際立った特徴がそこに隠されてるみたいなんだ。アバニコは使わない、アルサプーアは使うけど、親指の使い方はセペロや他の誰とも違っていて、指の強さと切れの早さも要求される。これが入らないとモロンは無理という事なんだけど、どこまで追えるかじっくりやろうと思っています。しかしいい時にイグナシオに会ったもんだ。もう少し教えてもらいたいけど、もう来週はモロンに家を探しに行くので後1回くらいしか習えないなぁ。けれどやっと練習が楽しくなってきた。青木さんみたいに自分が弾いてて涙するみたいに、早くなりたいなぁ。。

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2009年4月11日 (土)

サエタ 2

金曜日フランシスコさんに昼食を招待されました。セマナサンタは肉食は駄目で海老や鱈、などの海の手料理で本当に美味しかったです!娘さんのペピやアナさんも良い娘さんで楽しく食事をしました。
夜、このセマナサンタ一番との評判の”Ntra.Sra.de los Dolores”,の行列を青木さんと二人で見に行きました。Remedios教会の小さな広場の前は既に人で一杯ですぐに身動きできない程になりました。教会の入り口の前に階段があったので、ここから出ることは無いのかもな?と思っていました。定刻(9時30分)を過ぎた頃その扉を使者みたいな人が叩くと扉が開き始めどよめきが起こった。中から人々が溢れだしてきてヤッパリここからでるのか?(どうSaeta2 やって?)初めに”キリストの磔刑”の像の輿がでてなんとも見事に差し上げながら微動もせず下の広場に降りたのには感心したのだが当然拍手。しかし身動き出来ないほどの狭い街路をどうやって進んでいくのか?も見守ったのだけど、何の支障も、混乱も無く道は開かれ、しかも声を上げるでもなく、静々と進んでSaeta4 行くのには心底驚いた。これが伝統の力なのか解らないけど、凄いと只感心するのみ。(日本じゃこうはいかないな)次に”マリア像”が出て広場に留まったのだが、少し時間がたったとき建物の2階のバルコニーから細い声で女の人の”サエタ”が歌われ始めたのだ。しかもマイク無しで,素のカンテで少し声は大きくはなったのだが、Saeta_7 それでもそんなに張り上げる歌ではなかった。けれどこのカンテに対し聴衆は水を打ったように静かになり、その歌声は広場中に伝わっていったのだ。涙が出そうになるくらい感動しました!!本当にマリアに語りかける真情に溢れた良いサエタでしSaeta5 た。前回のマイク付きのサエタとは比べ物になりませんでした。いやぁ!良いサエタを見れたなぁ!カンテは声量じゃないなぁ。心が無いカンテは訴えるものなんか感じられないんだ。だって無いものを感じろったって無理なんだから。皆大拍手でした。次に”聖衣と埋葬のイエス”の輿、最後に”マリアとサン ホアン”の輿が教会からでたのは2時間30分Saeta_6 も過ぎた11時過ぎだったのだ。それまで身動きも出来ずお年寄りから子供までずっと待ち続けるのだけど、体力と忍耐が凄いんだなぁ。草臥れてしまったので路地のカフェテリアでビノを飲んでいたら目の前を行列が通ったのには驚いてしまった。特等席で座って見れてしまったのだ。青木さんも座って見たPhoto のは初めてなんだって。あのサエタを聴いてしまったのでもう今夜は帰ることにした。けれども疲れました。カミさんは行かなくて良かった。

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2009年4月10日 (金)

サエタ

此のところ何かと忙しく(酒飲んだり、シェスタの他に青木さんは納豆造りにと練習に没頭し、俺は練習少しと港で魚を買ったり。。。)ブログも書くのとどこをS1 って居ます。セマナサンタは水曜日の夜Jesús Cautivoの行列を見に行きました。出発する扉の前に40分前頃行ったら地元の人達がもう集まっていて、カミさんと俺は場違いな所に来た感じだったけど、そのまま待っていた。おばちゃんが「あんた達下がってよ」と言ったみたいだったが、おばあさんの二人が「いいのよ、あんた達は此処にいなさい」と言ってその人達に文句をいったら黙っS2 てしまった。スペインはお年寄りが元気で尊敬されているのが肌でわかる。日本の政治家が年寄りを死なそうとしているのとは大違い。定刻を10分過ぎた所で扉が開いた。けれども其処からが長くてとにかく楽隊やら三角頭巾の隊、御婦人隊、と延々と続きイエスの輿が出たのはそれから30分も過ぎていたのだが、通りに出るのに俺達のすれすれで回ったのにはヒヤヒヤもので、言われた意味がS3 わかった。上からは花びらが撒かれそれは綺麗で感動したね。それからまたマリア像の御輿が出るまで30分以上待っていたのだが、身動きできないので出るに出られず状態。やっと出られたので先頭を追って街を歩いたら偶然良い交差点で待っていたら輿が街路の途中で止まってしまってまた待つこと30分マリアの輿が来て並んS4 で止まった。その時サエタが聴こえてきた。何処からスピーカーを通していたのでわからなかったが、やっと前の建物の先で唄っている姿がおぼろげながらわかった。サエタは思ったより長く唄われ、けれどもあまり感動はしなかった。ヒタノのようなしわがれ声ではあったけど、まぁあんなもんでしょう。でも雰囲気は良かった。それでS5 も終われば大拍手で良かったです。これで今夜は終わりにして帰ったがヘトヘトに疲れた。セマナサンタって忍耐と体力勝負です。歳だなぁ。。

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2009年4月 9日 (木)

ディエゴのサイン入りギター(青木記)

         ブロGita1_4グに出てくるイグナシオが持っているギターの1本にディエゴのサインがあります。以前米国人アフィシオナードから購入希望があったときには断ったそうですが、最近 12,000ユーロで売りたいと考えています。もし興味のある方がいらっしゃれば、このブログのプロフィールから入ってメールをくだされば紹介いたします。写真にあるようにサインの上に2行の書込みがありますので、ラベルとともに下に記します。

          Juanjo a mi amigo
   Gita2_5       Miguel Mechan(Juanjo記)
Diego el De el Gastor(ディエゴの署名。原文のママ)


(ラベル)Guitarra de Artesanía
    Gita3_3      Madrid
(Calle)Arce. Nº 2   Año 1970

(経緯ほか)
Mechan はエステポーナの住人(2年ほど前に没)でディエゴの友人、Juanjo は当時の Sala Flamenca de Estepona(15年くらい前に廃業)のオーナーです。1973年、ディエゴは亡くなる前に米国人の友人 Pablo(Paul Shalmy) と一緒にエステポーナを訪れたことがあります。その場のギターや他人のギターを借りて弾くのを好んだディエゴは、その際のフィエスタでも Juanjo のギターを弾き、Mechan の求めでディエゴがサインしたギターを、Juanjo は Mechan に贈Gita5_2り、エステポーナに住まいを定めたIgnacio が Mechan の亡くなる前に譲られたものだそうです。両用ギターで状態は良好。表面版に爪跡が多く残っています。気分がのったときのディエゴの右手はゴルペ板を無視して動き回り、ギターの持ち主はハラハラしたといいますが、爪跡(の多く?)はディエゴのものと思われます。(青木和美)

(追記)米国からの情報ですが、ディエゴに同行したのはPaul Shalmy で、年は1973年であったことが確認されました。同じフィエスタにはフェルナンダ、ホアン・デル・ガストール、ダビー・セルバもいて、Paul Shalmy の記憶では、そのギターにディエゴがサインしたのは間違いないがその夜だったかどうかは覚えていない、多分そうだったろう、とのことです。昨年12月に訪西したとき、そのフィエスタの話をパコ・アンパーロとイグナシオの兄弟に話した記憶があるそうです。

今回は青木さんの記事です。

 

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イグナシオのレッスン

今日は3コンパス、一杯一杯。。。。。
Ignasio イグナシオは「今こんなの弾く若い奴はモロンにも居ないんだ」と自嘲気味に言っていた。

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2009年4月 7日 (火)

訃報

一昨日カンタールのChano Lobatさんが亡くなったそうです。TVでやってたらしい。詳細はわかりません。82歳だそうです。ご冥福をお祈りいたします。

またフラメンコが一つ消えてしまいました。

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モロンのコンパス

今まで自分はDiegoのtoqueが好きで弾いてきたけれども”フエラコンパス”は別としても、”一度も自分はモロンを弾けていない"という事はこれまでブログに何回も書いてきました。日本人でモロンを弾くギタリストは多い? けれども,さんとペペ島田さん(の一部)以外はディエゴのファルセータは弾けるけどモロンのギターとは違う気がしていました。エステポーナに来てイグナシオのギターを聴いたとき、やっぱり全然違うじゃないか! と思ったのはその考えが間違っていなかったのを認識したのです。エステポーナに後僅かしか居られないので青木さんと、イグナシオに何回かレッスンを受ける事にした(青木さんを引っぱりこんでしまった)。昨日が初めてのレッスンでした。初めに「俺にはファルセータはいらないから、モロンのコンパスだけ教えてくれ」とこれは大事なことなので正確に伝えたかったので青木さんに訳してもらいました(結局全部)。「ファルセータは本当にいらないのか?」「うん、いらない」「じゃぁまずお前の考えてるモロンを弾いてみろ」弾きました。すぐ止めて「お前のは全然モロンじゃない。何か他のもので、しかもフエラだ」「ヘレスやパコ デ ルシアのコンパスとモロンは全然別のものなんだ!」(そうだよ!だからそれを教えてくれよ=心の中)「一番簡単なベーシックなコンパスはこうなんだ」と弾く。(それそれ。。!!)その為にスペインまで来たんだから。。
教えてもらったのはモロンのコンパスの取り方と4つのラスゲアード(コンパス)だけです。フラメンコギターを弾く人には凄く単純でバカにされるかも知れません。けれども俺にはこれが弾けません。変なクセがでて時々指がそっちに行ってしまうからです。最後のは覚えたかった弾き方で、指使いが違っていて弾けないんだ。それだけで1時間近く過ぎていたんだ。最後のコンパスのバリエーションまでもいけなかった。「もっとやるか?」と聞かれたけど「ギブアップ!」けれどもこれが望んでいたものなんだ。これが体に入らないとモロンを弾く事なんぞ出来ない、のでまずこれを体に入れることから始めよう。長い間好きでやってきてやっとモロンの扉の前に来た気がする。鍵を開けて中に入れるかどうか?はこれからの自分次第なんだ。
「62歳からのフラメンコ武者修行」の始まりだ。

追記:イグナシオの家でご馳走になったモルシージャの事を書かないといけない。これは奥さんのエウヘニアの実家(Moron)のマタンサで彼が自分で作った物で今まで食べたどのモルシージャより美味しかった!今年のマタンサには呼んでくれとお願いしてしまった。あんなの何時も食べてるなんて贅沢だなぁ。売っているのと全然違うもの。。

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2009年4月 6日 (月)

セマナサンタ始まる

散歩に行って、ぐるっと岡の方から下りて行くと遠くから太鼓の音が聴こえてきたので、そちらに歩いて行くと人だかりがしていて、近づくとセマナサンタの行列だった。こういうのは初めて見たので嬉しくて付いて歩いて行く事にした。そういえば今日からサマナサンタがあると聞いていたのだけど偶然といって良いほどだったのだ。若い人達の”Grupo de Jóvenes”で女子も山車の中に入っていて、少し歩いて一旦降ろし先導の合図の槌で一気に上げると周りから拍手が起きるんだ。勿論俺達も。イエスの山車の後ろには楽隊が演奏していてこれもとても良いのだ。時々音楽に合わせて山車を揺すったりで何だか感動して涙が出そうになった。山車の前には地元の人達が正装してシュロの木みたいなのを持って歩き子供達は”KKK”のような三角頭巾を被ったり御香を振りながら歩いていた。結局貴賓席の所まで一緒に歩いたのだが3時間くらい掛かってしまったので帰って食事にした。昼間なのでサエタはありませんでした。

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2009年4月 5日 (日)

Peña Juan Breva

大体見たので(と思う)最後にflamenco museoを見に行く事にした。バルで聞くと殆どフラメンコのことなど知らずましてペーニャなんぞの場所など聞いても解らないのだ。場所はわかりやすい所だったのだが入り口で上を向いPena_1 てビックリ"Peña Juan Breva"の文字が飛び込んできた。入って行ったらそこは大きなバルでカウンターには大きな器にサラダが10個以上作られていて、忙しそうで、テーブルには老人達が固まって飲んでいた。飲めるかい?と聞いたら「いいよ」と言ったのだけど一向に注文を受けてくれないんだね。そのうちそのテーブルからカンPena_4 テが聴こえてきたんだ。へへぇ。。と思っていたらカミさんが直ぐにそのテーブルの傍まで行ってしまい、何だか笑いながら話してるんだ??俺も呼ばれて寄っていったのだが、もう俺にはその人達がどんな人か解っていたんだ。このペーニャの重鎮達なんだよ。カミさんははしゃいでしまっているので、それをを抑えるのが大変なくらいだったけど、「Repompa、の事やCañeta de Malaga, Cancanillaを見たことなどを話すとえらく喜んでくれて、「座って飲め」とフィノを注いでくれたり、周りの人達に俺達の事を話したりしてくれてた。皆80歳を過ぎていたのに元気でfandangoを一節唄ったり、フラメンコについて話したりしていたんだが、不思議にフラメンコの話は何を言Pena3 ってるのか?解るんだね。そのうちどんどん人が増えてきて、踊り手のPepito Vargas(知らなかった)とかも来ていて何だか訳が解らない。今まで中々唄わなかった一番偉そうな爺さんに「ところでマラゲーニャのサリーダはカディスのメジーソチャコンとはどう違うんだい?」と聞いてみたんだ。そしたらなんとその爺さんが唄ったんだよ!!それが凄くいいの!!声は小さくて張り上げないので耳を傍まで持って行ってきくんだけど、もう参ってしまうくらい、反応が良かったのか、それから火が点いたみたいに語り始め、「カディスのマラゲーニャにはサリーダは無いんだ」と言って最初の一節を唄ってこれがサリーダになるんだ。チャコPena2 ンはこう、と唄って見せてくれた、けどマラガは別の物なんだ。と言って聞いたことのない節回しを唄ってくれて、もう夢中になってしまった。カミさんが横でゴチャゴチャ言うのも邪魔でした。マラガのマラゲーニャとグラナイーナが近いことや、ファンダンゴとの関連も語ってくれたのだが、その辺になるとスペイン語の理解ができないので(青木さんが横にいてくれたら良かったのに)と思った。ここで大失敗だったのは、レコーダを持っていたので録音しようとしたのだが、あまりに集中したので録音ボタンを押し忘れてしまったのが、返す返すも残念でした。どうやら来週の火曜日頃に此処にCañeta de Malagaが来るのでお前達も来いと言われたけど来週はセマナサンタなので無理だ。と言ったら納得した。俺もフィノをやっと買って爺さん達のテーブルに進呈したら喜んでくれた。爺さん達はそれからそれぞれが外に出て行ったので俺達も帰ることにしたけど、まだカウンターと入り口には人は一杯だった。
翌日青木さんが教えてくれたところによると、何とその時間に上でフィエスタが開かれていたらしいんだ。どうりで人が多かったんだね。若手のカンテとギタリストらしかったけど、俺にとってはまぁ別にいいや。爺さん達のMalageñaが聴けたんだもの。それだけで充分だ。もし入っていたらマラガに泊まることになっただろうなぁ。知らないでよかったかもね。。(負け惜しみだけど)

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マラガぶらぶら歩き

土曜日の朝まだ暗い7時のバスに乗ってマラガに行った。1時間45分でようやく明るくなったマラガのバス停留所について、旧市街に歩いて行った。橋を渡って直ぐのところにメルカドがあり中はバルセロナよりは狭いけど通路が広くて色々なお店があって、かなり専門家されてるみたい。ここでナツメ椰子の実を買ってから裏にあったチューロ屋でコーヒーを飲もうと入ったら地元の人達が入れ替わりに入ってきてお姉ぇちゃん二人が切りもりしてるんだけど、伝法な口調で威勢がいいんだ。ここは客の注文を受けてから作るので暖かくてトテモ美味しかったけど、1個しCtedralか頼まなかったのは失敗だった。街はセマナサンタの準備で観覧席が作られていた。カテドラルのなかはやっぱり荘厳で素晴らしかった。そこからアルカサルに行ったんだけどもうすでに歩き疲れ始めていたんだけどまだカミさんは元気で歳の差かなぁ?ここは戦闘のための無骨な城と言った趣で良かった。港が一望Photoできて豪華客船も入港中だった。ピカソ美術 館はPhoto_4お休みでその近くにある青木さんが教えてくれた ”Bodega  Bar El Pimpi”に入った。ここはアンティックな雰囲気でワイン樽があり有名人のサインが書かれていて”La Chungaのサインや壁にはRepompaの写真も飾られていた。音楽はPaco de Luciaでした。街をブラブラ歩いていると小さな路地にもテーブルを置いて此処は海鮮のお店が多いみたいでその内の1軒に入ってガンバ(小エビ)を頼んだら美味しくてランゴスティノを追加してこれも美味しくてこれだけでお昼には充分だった。ハモンセラーノが一杯吊るしてあるお店では白ワインとハモンでこれまた美味いんだ。普通のハモンだと思うけど何だろうね? 最後は”El Piyayo”というマラガの古い バルです。”Tango de Piyayo”はカンPhoto_3テを唄っている人達は知っていると思います。Piyayoの写真もあってそれが座った席の真上にありました。写真も撮ってきたけど、闘牛士やアルティスタの写真が此処にも多く飾ってありました。今回は珍しく食べ物に大当たりで何時もははずればかりです。
フラメンコは?。。。

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2009年4月 2日 (木)

TV出演?

Javierjimeno 話は前後しますがカサレスに行く前の日に市の文化協会の建物で催されているフラメンコ教室の見学にいきました。ギタリストのPaco Javier Jimeno さんが教えています。Javierさんは青木さんの友達で「何時でもいいから来いよ」と言ってくれていて、行くと受付の人が直ぐ案内してくれました。10代の若者達が4-5人ギターを習っていました。青木さんは「こいつは俺よりフラメンコ好きでソレアとシギリジャはちょっと弾けるけど後は駄目な奴です」と誰にでも紹介してくれます。(笑い)案の定弾いてみろと言われたのでソレアを少し弾きました。Javierさんは「muy antiguoだけどとてもいい!」と言ってやっぱりソレアを音を一杯使って弾いたけどこれが中々良かったんだ。マラゲーニャを弾き語りして今のはチャコンのだと生徒に教えていたのでメジーソは? と口を挟んでしまったら「メジーソはこうだ」と言って即座にやってみせてくれた。それから話は二人ともカディスの人でマラガは別のものなんだ」といったので(そうそう本場のそれが聞きたかったんだ)と思っていたらドアからマイクを持ったアナウンサーとカメラマンが入ってきたのでビックリしてしまった。どうやら地元のエステポーナTVで地元の活動を伝える番組で色々取材しているそうなのだ。カンテの子供がファンダンゴを歌うのを撮影していて、ちょっとまずい所にきてしまったみたいで、席を外そうとしたのだけど「いいから座っていろ」と言われてしまった。Javierさんはそのうち自分の教室の取材なのにそっちのけで俺達をTVの人に紹介し始め青木さんの本を取り出して中のフエルナンダの写真を映させて「日本でこういうフラメンコの本をこの人が翻訳して出しているんだ」と語ったのでマイクは青木さんに向かい青木さんは流暢に答えていたんだ。(かなり熱く語っていたけど勿論俺には解りません)Javierさんがこいつも弾くんだよ。といったので(ヤバイ!)と思ったら案の定何か弾けと言われたのでまたソレアを弾いたんだけど弾いていて段々(俺は今何やってんだぁ?)と思ったら緊張してきて指が動かなくなってきたので何とか終わらせて、心臓がバクバクだとジェスチャーしたら大笑いされてしまった。取材が終わったら次の約束の時間が来ていてカンテのレッスンが見られなかったのは残念だった。
放映は翌日の夜11時からだと聞いていたのでその時間にTVをつけたら一向に始まる気配が無いので寝てしまったら、翌日青木さんが「10時15分からの放映だったみたいで終わっていたみたいよ」といったので見なくてよかったなぁと大笑いしてしまった。しかしフランシスコさんがきて「お前達夕べTVに出てたろ?}と言ったのでヤッパリ放映されてしまったんだ。だから自分が出たのは見ていないので感想はありません。よかったぁ、見なくって、また落ち込むもんなぁ。。。青木さんは向かいのツーリスタに行ったら「お前TVに出てたろ」と言われたらしい。どうやら全部映っていたらしい。教室に来ていたカンテの生徒のおばちゃんが「貴方達明日からスターだわよ」と言っていたけ嘘だろ?と思っていたんだけどな。
Javier さんはマラガからアルヘシーラスまでフラメンコの大立者らしいのですが、とても親切で暖かくて、自分のアルテを出し惜しみしない人でした。思ったより若い人なのだけど、何処かの誰かみたいに偉ぶってないし、エステポーナにいたら俺も混ぜてもらって教えてもらいたい位です。今の所フラメンコの人達は皆暖かくて本当に良い人ばかりです。

追伸:YoutubeにJavierさんの映像がありますが、Andres Lozanoという爺さん(60歳)がとても良いです。近隣の村マニルバ出身で声がとても良いです。Malaguenaも良いし、Solea de Cadizが良いです。http://www.youtube.com/watch?v=B3RuQQUiss4&feature=related

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2009年4月 1日 (水)

Ignacio de Moron

エステポーナのペーニャで待ち合わせたので、そのバルに入ったら後ろから入ってきた野球帽を被った少し太った男がイグナシオだった。皆初対面なのだが、モロンを好きなのが解ったみたいで、笑いながらDiegoや自分のことを喋り始めた。彼はJoseleroの孫でDieguitoは叔父、Son de la Fronteraパコ アンパーロの兄なんだね。しかし去年の11月交通事故で4ヶ月も入院していて、まだ体が動かないし、ギターも弾けないんだ。と言っていた。帽子を脱ぐとツルツルにした頭に大きな傷跡が残り右肘と脚の踝にも大きな傷跡で見るからに痛々しそうで、首も上手く回らないみたいなのだ。(こりゃぁ駄目だなぁ、どれ程弾けるかも解らないし、期待できないな)と内心思ってしまったのだ。まぁ聴いてもらえばいいや、とギターを取り出してSigiriyaを弾いた。(後から聴いたらそんな事する奴いないんだと)ところが気が抜けていたのか、全然弾けないんだね。今までで最低の弾き方だった。気も入ってないし、間違えるしで散々だった。イグナシオが俺のギターを持ってヘルンディーノかぁいいギターだよな。と言いながら弾きだしたんだ。ブレリア。。それはとんでもないものだったんだ!確かに弾いても疲れて休むのだけど段々のってきて、目が輝きだしてきて顔も活き活きとしてきて、そのトーケ!!まさにプーロなToque de Mronだった。その指の強さ、アイレ、何より目と顔の表情に目が奪われてしまうんだ。まるで俺の足元が崩れ落ちてくみたいなショックだった。全然違うんだよ!!。今まで俺が弾いてたのは一体何だったんだ?俺の弾いてるものなんかお子様の手遊びに過ぎないみたいなものなんだ。いやぁ参ったなぁ!立ち上がれないかも知れない。イグナシオは俺の一族は皆ロコなんだ。と言ったけどこれが血のなせる業かと思ったほどだよ。俺が欲しい物を全部持ってるんだ。しかしそれは遥か彼方にあるみたいで届きそうにないんだよ。本当に参ったなぁ。イグナシオの奥さんのEugeniaさんと娘のMarinaもやってきて体のことを心配していたので、カミさんが肩をマッサージ(カミさんはプロだから)してやったら始め怖がっていたのだが少し楽になったみたいで喜んで俺の家に行こうと招待してくれた。親子3人が暮らしているアパートは温かみが感じられてこの夫婦は今貧しくてもけなげに生きてるんだな、と実感した。イグナシオはインテリみたいで本も大分読んでるみたいだった。明日ちゃんと時間をとってマッサージしてあげることにして帰ってきたけど、今日は本当に凄い事になったなぁ。しかしこんな凄いギタリストがエステポーナに居るなんて誰も知ら無いんだよなぁ。ペーニャの主人のDomingoもビックリしてたよ、聴いたこと無かったみたいだもの。何なんだろう。。。

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ブエブロ ブランコ

今日は何もする予定が無かったので青木さんが車でカサレスに連れて行ってCasares1 もらいました。カサレスは初めてスペインに25年くらい前に来たとき以来で裏側からの道は初めてでしたが、大分変わっていたようです。教会も新しくなったし大きな建物も街外れに出来ていました。車も地元のは中に入れるようです。ブラブラ散策していると天気もよくて気持ちがよいです。観光写真に出てくるポイントで写真を撮ってまだ時間が早いので別の村に行くことにしました。大分離れた所にあるCastilla_1Castillo de Castellarです。ここは観光客もあんまり来ないような山の上の古城で、野には花が咲き乱れて静かで良い所です。外国の観光客も何組か来ていて、城の中の小道を辿って行くとアルコみたいでカサレスより良い感じです。ブラブラしてたら1件の小さなバルの扉に”Pena Duende"と書いたオブジェがあって、中に入りました。実は青木さんは以前にもこCastilla_3こに来たことがあるらしい。ここの城の中庭でヒタノだけのカマロンのオメナヘがあり月明かりの中で催されたフィエスタはとんでもなく良かったらしいんだ。(そりゃそうだろうな)カマロンは友達がここにいてよく遊びに来ていたらしい。若い主のDiego de Castellarさんがお前(青木さん)はDiegoが好きだろうといって掛けてくれました。いやぁ此処の雰囲気はいいです!冷たいマンサニージャをのんで山羊のケソを食べていたら、話はとんでもない事になって行きました。土曜日に此処でヒタノが来てやるからお前達も来いよ。という話から友達のイグナシオはモロンのDiegoCastilla_2のファミリーなので知ってるか?という話から連絡してやるから会ってみろと言ってくれてすぐ電話してくれ番号も教えてくれました。お前達が此処でフィエスタを企画してやれよとか色んな話になったのです。これにはビックリ!いきなり展開が早すぎるぜぃ。噂には聞いてた人がまさかこんなに早く知れるとは思わなかったモンなぁ。しかし此処はこじんまりしてギターが弾きたくなる雰囲気でいつか俵さん、青木さんや能登さんたちと此処で遊べたらいいなぁ。帰りに農場の販売所に寄って美味しい山羊のケソや干し葡萄を買って帰って、青木さんがイグナシオに電話して今夜会うことになってしまった。予定がない日なのになぁ。昨日もとんでもない事 が起きてしまったのだ  がそれはまた後で。。。。

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